8月7〜9日(木・金・土)長崎で行われた原水爆禁止世界大会に、足立支部から4人の仲間が代表として参加。現地長崎で、原爆や戦争の恐ろしさ、無意味さ、平和の尊さについて学びました。
1955年、広島で第一回大会が開催し、2千6百人が集結。その後、核兵器廃絶と平和を訴える国際的集いとしてこれまで続いています。今年は被爆80年の節目の年、兵器の恐ろしさと被害の実相を伝える特別プログラムが行われました。
長崎では、体験継承の集いや分科会などが旺盛に開かれ、3千2百人が黙祷。老若男女、世界中から一堂に会した仲間たちが「平和」について考え、願い、活動継承への決意を新たにしました。
記録と記憶を繋ぐ
猪狩達也・副委員長
長崎は、いつか訪れたいと思っていた地です。現地で聞く話や、展示物は凄惨なものばかり。戦争は決して起こしてはならない「核兵器のない世界を実現しなくてはならない」と強く感じました。
日本は唯一の核被爆国。にも関わらず、なぜ核兵器禁止条約に署名できないのか、私には理解できません。そして昨年、原水爆被害者団体がノーベル平和賞を受賞し、核兵器禁止の声が世界中で高まっています。国内外で力を合わせ「核兵器のない平和で公正な世界」を目指す様子に、心が熱くなりました。
今回の経験を胸に、明日も明後日も来年も変わらず「平和」に関心を持ち、戦争反対、核兵器禁止の行動を続けて行きたいと思います。記録と記憶が風化しないように。
建設の力で未来へ
内山知樹・書記局
終戦から80年を迎える今年、被爆地・長崎に立てたことは、自身の人生でも特別な経験となりました。
当時の資料を通じて原爆の惨状を学び、被爆者の「焼け野原で親族の遺体を探した」という証言に胸を打たれました。涙ながらに語る姿に、直接話を聞ける最後の世代として、語り継ぐ責任を強く実感。分科会では、未だに「被爆者手帳を持てない千人の存在」を知り、当時の行政による線引き、救いなき現状に怒りを覚えました。
建設業従事者は、戦時に軍事施設の建設を強いられたという歴史があります。平和を守ることは、未来の仕事と暮らしを守ること。仲間とともに「つくる力」で、次世代に平和を繋ぎ、笑顔溢れる社会を手渡すため活動を続けていきます。
泉に刻まれし思い
加藤邦久・さくら分会
平和には以前から興味がありましたが、漫画「はだしのゲン」でしか知らないような状態。長崎で戦争を生き抜いた方々の話を聞いた時、胸が締めつけられるような光景が次々と心に浮かびました。
特に心に残ったのは、長崎市平和公園にある平和の泉です。ここには、原爆で水を求めて必死に苦しんだ人々の思いが刻まれ、当時小学生だった少女が記した手記が石碑に残されていました。「のどが乾いてたまりませんでした。水には油のようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくてとうとう油の浮いたまま飲みました―」。
当時の情景や心境を思うと、胸が締めつけられます。戦争の悲惨さと平和の尊さを学ぶことができ、心から感謝しています。
差別も偏見も超え
関塚隆五・入谷舎人分会
80年前の8月9日、長崎は焼け野原となりました。戦争は日常を奪い、家族や未来を引き裂きます。そしてそれは過去のことではなく、今尚、兵器の脅威にさらされている人がいるのです。
長崎原爆記念館では、被爆直後の写真や映像に絶句。その帰り道、ご年配の女性に話し掛けられました。何とはなしにお話をすると、3歳で被爆をしたことが判明。「タクシーの乗車拒否」「子どもがいるにも関わらず婚姻関係解消」など、様々な差別や偏見に苦しんだお話に涙が頬を伝いました。
戦争の悲惨さと平和の尊さを学び、その責任を改めて実感。「長崎を最後の被爆地に」という言葉を胸に、二度と同じ悲劇を繰り返さないよう行動していきたいと思います。